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追悼 小室直樹博士

小室直樹著『韓国の悲劇』

小室先生が1985年に書かれた『韓国の悲劇』を読み返した。
この本も日本人必読の本だ。

小室先生が強調されているのは、日韓関係を考えるには、まずもって歴史的経緯を正確に知ることが必要だ、という点だ。

実は今日ほど、日本人の韓国人に対する地位の高い時代はない。これは、日韓関係の歴史から見てまことに異例のことであり、この異例さに日本人が気付いていないこと、それに対して韓国人はこの点に極めて敏感であることが、日韓関係の大きな障害の一つになっている、ということを強調している。

「日本書記」によると、聖徳太子の斑鳩朝においては、日本人高官が朝鮮語を話すことができたことが分かる。当時の日本人高官は、支那(中国)からの使者に対しては通訳を介しているのに、朝鮮からの使者とは直接話しをしているからだ。

また、朝鮮半島や中国大陸からやって来た人々は「渡来人」と呼ばれ、その中でも日本に住み着いた人々は「帰化人」と呼ばれ、文化人として大変丁重に扱われた。日本人が舶来物をやたらとありがたがる、というのは古代からの特徴だ、ということだ。

明治時代のイギリス崇拝、戦後のアメリカ崇拝は、何も明治時代の特徴、戦後の特徴ではなく、日本人の生来の性、ということだ。何とも情けないことだが、これは自らの文明を創り出す力を持たない辺境国の宿命だろう。

中世になっても朝鮮からの文化的影響は大変大きなものがあり、特に、儒教における日本への影響は絶対的なものがあった。代表的な人物は李退渓(1501~1570)だ。

李退渓は朱子学者であり、徳川時代の日本儒学もまた朱子学だ。李退渓の日本儒学に対する影響力は特筆すべきものがあり、その意味は重大であった。端的にいえば、日本武士道の根幹を築いたのは、朝鮮人であった、ということだ。

現在、日本人で李退渓を知っている人は殆どいないが、それに対して韓国では、李体渓は1985年当時、1,000ウオン札に載っていたそうだ。そして韓国人は彼のことを現在でも大変尊敬しているようだ。

我々日本人は、まず、朝鮮半島の文化が日本の文化に及ぼした影響がどれほど決定的なものであるかを認識する必要があり、同時に、この点に関して韓国人は極めて高いプライドを持っている、ということを知る必要がある。

近代の日韓関係における最大の事件は、韓国併合(1910)だ。それから35年後、日本が敗戦するまでこの状態は続き、1945年8月15日を 境に韓国は日本帝国主義から解放され、この日は独立記念日とされている。

しかし、この通説は、実は全くの誤りであり、韓国人の日本人に対するコンプレックスの裏返しにすぎない、というのが小室先生の指摘だ。

日本人が留意せず、韓国人も理解せず、しかも、極めて重要なことは、戦後における韓国の「解放」は実は解放でも何でもなかった、ということだ。

昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾した。しかし、このことによって朝鮮が解放されたわけではない。

金九(キムグ)という人物がいる。暗殺の神様といわれ、植民地時代に独立を求める人々の希望の星として尊敬を一身に集めた人物だ。

彼は、日本降伏の報に接したとき、「朝鮮軍は、日本軍を打ち破ることは一度もなかった。私は、日本軍を撃滅し、自らの血と汗で、我が同胞を開放したかった。」と長嘆息したと言われている。この金九の嘆きに、韓国人の対日感情の原点がある。

「開放」なんていったところで、決して自力で「日帝」を追ったのではなく、本当のところ、ほとんど何もできなかったというのが真実、ということだ。

日本は1945年8月15日にポツダム宣言を受諾したものの、日本帝国の朝鮮支配は、まだ終わっていなかった。「開放記念日」と言われた8月15 日以後も、日章旗は、日本の朝鮮支配のシンボルたる総督府にも、李王朝のシンボルたる景福宮にも、役所にも工場にも学校にもひるがえっていた。

アメリカが交渉相手として選んだのは、朝鮮総督府であり、アメリカ軍が留意したのは、上月良夫中将の朝鮮軍管区軍(日本軍)であった。8月15日の ポツダム宣言受諾から、9月9日の、朝鮮総督府、朝鮮軍管区軍の沖縄24軍団(アメリカ軍)への降伏がなされるまで、韓国における統治は、なお総督府の手にあり、朝鮮軍管区軍によって治安は保たれていた。

群民蜂起もなく、いわんや、革命もなかった。「反日帝」の指導者はみんな、まごまごするだけで、何をどうしてよいか分からなかった、というのが本当のところだ。

すでに9月7日のマッカーサー布告によって、朝鮮には軍政がしかれることになっており、沖縄第24軍団長ホッジ中将は、9月11日には軍政施工を布告したが、朝鮮総督府の統治機構と日本人官吏をそのまま登用することにした。

このように、韓国の開放は、「日帝」から戦いによって奪取したものではなく、「日米による共同統治」でスタートした。端的にいえば、アメリカは、日本から、「朝鮮の征服」を引き継いだ、ということだ。

韓国人は、全くもって無視された。このことがもつ歴史的重要性は、極めて大きな意味をもつ。日本の朝鮮統治は、アメリカ軍へと継承されたことで、歴史的な正当性を持つようになった、ということだ。

これが、日本敗戦を契機に軍民蜂起が起き、日本帝国主義を朝鮮人自らの手で打倒した、ということであったならば、韓国は、自らの血と汗で、自分達の国を創り上げた、ということになる。つまり、日本帝国主義は拒否され、その正当性は否定され、実力で打倒された、ということになる。

日本の敗戦という絶好の機会を得ながら、それが出来なかった。日本の統治から日米の共同統治へと推移する過程を拱手傍観し、日本帝国主義の正統性を追認してしまった。韓国人が何かあるとやたらと日本人に敵意をむき出しにする淵源は、実はここにある、というのが小室先生の主張だ。

韓国が独立したのは、日本敗戦の3年後、1948年8月15日だ。8月15日が復光節と言うことで、日本人は勝手に1945年の8月15日だろう、と考えるようだが、実はそれから3年間、日米による共同統治の時代があった、ということだ。実は、復光節は1945年なのか1948年なのか、というのは今でも韓国では論争になっている。

2000年の長きにわたり、朝鮮は日本の先生であった。それが明治以降、今度は日本が朝鮮の先生となった。それだけならばまだしも、朝鮮は併合され、日本人は朝鮮人を侮るようになった。

今まで「先生、先生」とペコペコとまとわりついていた弟子が、ある日突然「今日から俺が先生だ。俺の言うことを聞け」と態度を豹変させたら、元先生(朝鮮)は、元弟子(日本)に対して、どのような気持ちになるだろうか。

しかも、元弟子は、出藍の誉れで、日清、日露の両戦役で勝ち、世界の強国として世界史に躍り出てしまった。つまり、どんなに頑張っても元先生は元弟子にかなわない。自分の方が文化的に高いと信じているにもかかわらず、軍事的には全くもって何もできない。これほど自分の無力さを感じさせることはない。また、これほど屈辱的なことはない。

その上、あろうことか、元弟子が元先生を征服してしまった。更に元弟子が敗戦により決定的に弱体化している時に、元先生は自らの血と汗で独立を勝ち取ることなく、拱手傍観し、何もできなかった。元弟子は没落し、新たな征服者であるアメリカにとって代わられたものの、結果として、元弟子の所業を追認してしまった。

もっと悪いことに、戦後、元弟子は、元先生のことに対して全くもって無関心となり、元先生の屈辱感に対して「はあ、そうですか(この人達は何をそんなに怒っているのだろう)」という感じで、全くもって「反省」していない。

これが、韓国人の日本人に対する行動様式を、明示的にも、無意識のうちにも縛り付けており、我々日本人は、まずもってこのことを理解しなければならない、というのが小室先生の主張だ。

小室先生は、日本人の韓国人に対する態度は、アメリカ人の日本人に対する態度と社会学的に同系だ、と指摘している。裏を返せば、韓国人の日本人に対する態度は、日本人のアメリカ人に対する態度と同系、ということだ。猛烈な反発と熱烈な憧憬が混在する、精神分裂症患者のような反応、だ。

日本を征服したアメリカ人が、日本人に対して無関心である一方、日本人はアメリカ人の一挙手一投足に過剰に反応するように、朝鮮を征服した日本人が韓国人に対して無関心である一方、韓国人は日本人の一挙手一投足に過剰に反応する、ということだ。

『韓国の悲劇』はハングル語に翻訳され、韓国で一段センセーションを巻き起こした。しかし、韓国人の偉いところは、小室先生の指摘が歴史的事実であることを認め、先生を韓国に招き、京城大学(ソウル大学)で講演させたことだ。

小室先生は開口一番、「この京城大学を日本人の税金で設立したのは東京帝国大学、京都帝国大学につぎ、3番目であり、大阪帝国大学を設立するのより早かった。また、大東亜戦争で最重要の対米英決戦を担った南方総軍の兵站監(補給の責任者)は洪思翊(こうしよく)陸軍中将であり、朝鮮名のまま親任官(天皇陛下の直臣)となり、日本軍人として戦った。つまり、創氏改名というのは強制ではなかった。」とぶち上げたそうだ。

韓国人は、当然、当初は物凄く反発したそうだが、激論の末、これらの主張もまた歴史的事実であることを認めた。

それ以降、小室先生は韓国の知識人の間で大変尊敬されるようになり、しょっちゅう、講演に呼ばれるようになった。日本の知識人で、韓国で講演し、会場を満員に出来たのは、小室先生ただ一人であった、という。

韓国人が大嫌い、韓国人が大好き、というフィーリングの発露も結構なことだが、まずは歴史的な経緯を学ぶことが必要だ。そして、歴史的経緯により、両国人にどのような心的状況(コンプレックス)が醸成されているのか、を社会学的に理解しなければ、真の相互理解は不可能だ。

ただ好きだ、なんとなく嫌いだ、というのであれば、3歳児の反応と変わらない。しかし、3歳時並みの知識と感情しか持っていない人間がやたらと多いのが今の日本だ。日本人の平和ボケ、歴史ボケ、外交ボケ、は病膏肓に入る。

せめて高等教育を受けたことになっている大卒以上の人間ならば、上記のような歴史的事実を常識として知っておくべきだと私は思う。

是非、皆さんも『韓国の悲劇』をお読み下さい。



# by matsuo_yuji | 2010-09-21 08:53

小室直樹著『大東亜戦争ここに甦る』

先週末から小室直樹先生の本を読み返している。
目下、読み返しているのが、『大東亜戦争ここに甦る』だ。

先生がこの本で強調しているのは、日本が大東亜戦争で負けたのは、物量や技術の差ではなく、腐朽官僚制のまま戦争に突入したことに原因がある、ということだ。

そして、日本が腐朽官僚制を脱却し、緒戦の圧勝を活用して冷静な作戦計画を断行していれば、大東亜戦争に勝てた、ということが書かれている。そもそも日本に達識の指導者がいれば、日本は大東亜戦争を戦わずに済んだ、とも分析している。

何よりも、大日本帝国を滅ぼした腐朽官僚制が、現在の日本を再び滅ぼそうとしている、ということを喝破している。

1941年当時、アメリカは、ドイツがイギリスとソ連を征服することを阻止すべく、イギリスとソ連に対して出来得る限りの援助をしていた。もしドイツがイギリスとソ連を征服したら、ドイツはアメリカに拮抗し得る大国になる。そうなる前にドイツを潰さなければ、アメリカが危ない、と いうのがルーズベルトの判断であった。

そのため、ルーズベルトは、有名な「海賊に与える書」という声明を出し、ドイツ潜水艦への攻撃を命令します。中立国としてあり得ない、公然たる干渉だ。

しかしドイツのヒトラーはアメリカのルーズベルトの意図を読み切っていた。ルーズベルトは、「絶対に戦争はしない」と公約して三選された大統領であり、自ら進んでは戦争が出来ない。だから、ドイツが反撃しない限り、アメリカが対独開戦には至らないことを理解しており、アメリカの度重なる挑発に乗ることはなかった。英ソに対して二正面作戦を展開しているドイツには、とてもアメリカと戦う力ははい、と判断していたわけだ。

そのため、ルーズベルトは、ドイツと軍事同盟を結んでいた日本を挑発し、戦争に引きずり込めば、必然的に対独戦争が出来る、と読んで、日本への圧力を高めた。

しかし、海軍次官を務めた経験のあるルーズベルトは、日本海軍の実力を良く知っていたため、ドイツに対するような露骨な挑発は日本に仕掛けてこなかった。

ドイツに対しては、駆逐艦でドイツUボートを撃沈せよ、と命令しておきながら、日本に対しては軍事圧力をかけず、資産凍結や石油の輸出ストップなどで対日圧力を強めていったことが、何よりの証拠だ。

ドイツと戦争がしたくて日本を挑発してみるものの、日本の海軍が怖い。ルーズベルト政策が抱える先鋭なる矛盾である。

このような情勢は、達識の指導者ならば、簡単に理解し得たものだ。少なくとも、「日本と違い、アメリカの政治家は公約を守らなければならない」 ということさえ日本の指導者が理解していれば、「アメリカは、自ら進んでは、絶対に戦争が出来ない」ということを理解していたはずだ。

真珠湾奇襲の最後の引き金となったのは、いわゆるハルノートだが、冷静に読めば、ハルノートはむしろアメリカに日本と戦争をする意図はなかったことを証明する文書だ。

ハルノートには、日本に対する要求事項が実施されるべき期間が書かれていない。「いつまでにこれをせよ」という期間の明示がなければ、それは実効性がない。このことだけ見ても、アメリカの対日圧力は、実は本気ではなかったことが明白だ。

即ち、ハルノートが出された時に、その条件である北支からの撤兵に対して、「撤兵します、撤兵します」と言うだけ言っておいて、ズルズルと引きずり伸ばすことが可能だった、ということだ。つまり、本気でアメリカは日本を脅していなかった、ということだ。
極秘文書でも何でもない、公然たる外交文書に書かれている正確な意味を、当事者である日本人が、当時はおろか、戦後65年経っても全く理解していない。日本人の平和ボケ、外交ボケは、まさに病膏肓に入るとしかいいようがない。

それはともかく、1941年当時の日本のベストな戦略は、石油が止められた瞬間に、ABCD包囲陣のうち、Dに当たる、オランダとだけ開戦し、オランダ領インドシナを実力で確保し、石油を獲得する、という戦略だ。そうなれば、ルーズベルトはいきり立ち、即時対日開戦を主張したことであろう。

しかし、当時、戦争反対が絶対の世論であったアメリカでは、「外国(オランダ)の植民地を守るために、なぜアメリカ青年が血を流さなければな らないのか」という声が澎湃として巻き起こり、対日戦争は起きなかったことであろう。

もしこのことに気付かずに、真珠湾奇襲を行った場合、つまり実際の歴史の通りに戦争が起きた場合でも、「アメリカの狙いはドイツである」ということさえ理解していれば、日本は戦争に勝つことが出来た。

当時、ドイツは、軍を3つに分け、ソ連を3ヵ所から攻略していた。本来ならば、モスクワ攻略に全力を集中すべきところであったが、石油を獲得するために、どうしても南方石油資源地帯の攻略に力を割かざるを得なかった訳だ。

また、ドイツとイギリスは、アフリカで死闘を繰り広げていた。インドの市場と中東の石油が、島帝国である大英帝国の生命線であり、チャーチルは、インドと中東を守るために、イギリス・アフリカ軍団を、ドイツのロンメル率いるアフリカ軍団と戦わせていた。
砂漠の戦いは補給の戦いだ。イギリスは、地中海をドイツに抑えられていたために、何と、喜望峰を経由して、英アフリカ軍団に補給を継続していた。大英帝国の面目躍如、だ。

ところがそこに現れたのが、真珠湾攻撃とマレー沖海戦で米太平洋艦隊と英東洋艦隊を撃滅した日本海軍だ。

ヒトラーは、日本に対して、イギリス第二次東洋艦隊も撃滅して、インド洋を制海して欲しい、と打診している。山口多聞海軍少将も、イギリス第二次東洋艦隊を撃滅し、マダガスカル島に陸軍を配置して、イギリスのアフリカ補給路を断て、と意見具申している。

そうすれば、アフリカのイギリス軍はドイツに敗れ、イギリスに中東の石油が入らなくなり、イギリスは戦争継続能力を失うことになる。ドイツは、イギリス海軍が動けなくなり、かつ中東の石油を確保できれば、モスクワ攻略に全力を集中し、必ずやソ連を征服していたことであろう。

ソ連を征服したドイツは、次はイギリスの征服に動き出す。そうなる前に、石油を止められて身動きがとれないイギリスは、何としてでもドイツと講和をせざるを得なくなる。そうなれば、アメリカは対日戦争どころではなくなり、対独戦争の準備に全力を集中せざるを得なくなる。この時こそ、日本は、どんな条件ででも、アメリカと講和をすべき時、ということになる。

日本がアメリカに勝つには、ドイツがイギリスに勝たなければならない。そのためにはインド洋を制海し、中東の石油を日独が確保すればよい。

このことを、日本の指導者が理解していれば、日本は、大東亜戦争に勝てた、ということだ。いや、実際には、ヒトラーと山口多聞が、日本が勝つための戦略を具体的に提示していたのだから、山口多聞を連合艦隊司令長官に任命していれば、日本は戦争に勝てた、ということだ。

山口多聞は歴とした海軍キャリアであり、機動部隊の生みの親の一人でもある。

山口多聞は将来の連合艦隊司令長官として、海軍部内の期待を一身に背負っていた。しかし、卒業年次が山本五十六よりも8年遅いため、山口が山本の地位に付くまでは8年かかることになる。この「年功序列」が日本の敗因となりった。

たかだかお勉強に過ぎない海軍兵学校の卒業年次と成績が、実戦の指揮系統をも決定する、というベラボー、無茶苦茶が日本敗戦の原因となりった。このことを、今こそ日本人は思い出さなければならない。

それに対してアメリのルーズベルトは、当時、海軍少将に過ぎなかったチェスター・ニミッツを、28人抜きの大抜擢人事で少将から中将を素っ飛ばして大将に昇進させ、太平洋艦隊司令長官に任命した。このルーズベルトの決断が、アメリカの未来を切り拓くことになった。

学校の成績や卒業順位は、実戦の能力とは無関係だ。特に軍人は、不確実な未来に対して決断を行い得る、戦略眼と決断力を併せ持つ人物でなければならず、しかも生命を的にして戦うため、「鉄砲玉が避けて通るような」幸運の持ち主でなければならない。つまり、政治家同様、学校教育では育成出来ないのが軍人という存在だ。

このことは、明治時代の日本ではよく理解されていた。日露戦争の開戦前、舞鶴鎮守府司令長官という閑職にあった東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢した山本権兵衛は、明治天皇にその理由を聞かれ、「東郷は運のよい男でございますから」と答え、明治天皇も了解された、という有名な話がある。

また、陸軍も、大山巌元帥以下、第1軍の黒木大将、第2軍の奥大将、第3軍の乃木大将、第4軍の野津大将と、いずれも軍司令官クラスは幕末の騒乱の頃から戦争に次ぐ戦争で生き残って来た強運の持主が任命されていた。

戦争は、国運を賭けた戦いであり、より運の強い方がよりミスが少なくなり、結果として勝つ。このことを明治の軍人はよく理解していた。

そのことが全く分からなくなり、学校教育の成績と卒業年次が軍人の能力である、と勘違いしたのが昭和の軍人だ。

この、昭和の軍人が犯した誤りを、戦後の経済官僚は、そっくりそのまま引き継いでいる。そしてそれが、戦後の経済戦争の敗戦をもたらした。

日清、日露の両戦役で大日本帝国の興隆を担った軍事官僚が、大東亜戦争の敗戦により、結果として国を滅ぼした状況と、戦後の経済成長を担った経済官僚が、バブルの処理に失敗し、バブル崩壊後の金融戦争でもアメリカに敗れ、結果として経済大国日本を滅ぼそうとしている状況は、そっくりだ。

その共通する原因は腐朽官僚制にあり、実力とは無関係な秩序形成が、官僚機能を阻害していることが問題だ。このことは、経済官僚だけではなく、外務官僚など他の官僚にも当てはまる。

何はともあれ、是非『大東亜戦争ここに甦る』をご一読ください。



# by matsuo_yuji | 2010-09-18 20:16

追悼 小室直樹博士

私が敬愛する、小室直樹(こむろなおき)博士が亡くなった。享年78歳であった。
小室先生は、私の直接の師匠である副島隆彦(そえじまたかひこ)の、そのまた師匠に当たる人だ。

小室先生と直接会って教えていただいたのは一度だけであったたが、その御著書は、一般向けに関しては殆ど読んでいる。少なくとも1990年 以降に出版されたものは全て読んだ。

小室先生は、日本が世界に誇り得る、唯一の社会科学者(Social Scientist:経済学者兼政治学者兼心理学者兼社会学者)だ。日本の社会科学者で、海外で講演して、会場を満員に出来るのは、小室先生だけだったと言う。特に韓国と中国で大人気だったそうだ。

日本が大東亜戦争で負けたことが悔しくてならず、湯川秀樹に原爆の作り方を学ぼうと決意し、京都大学に進学。ところがすでに湯川博士は退官しており、やむを得ず数学科で位相幾何学を学んだ。

その後、大阪大学大学院で経済学を学び、フルブライト留学生として渡米、ポール・サミュエルソンから理論経済学を、バラス・スキナーから心理学 を、タルコット・パーソンズから社会学を、ジョージ・ホーマンズから社会心理学を学んだ。

帰国後は、東京大学大学院法学政治学研究科に進学し、丸山眞男から政治学を、中根千枝から社会人類学を、篠原一から計量政治学を、川島武宜から法 社会学を学んだ。1972年には、東京大学で法学博士の学位を取得している。

小室先生の御著書から学んだことが、現在の私の思想の骨格をなしている。
また、歴史的な事実に関しても、先生の御著書から多くのことを学んだ。

例えば、日本人がやたらとありがたがっている国際連合(国連)が設立されたのは1945年6月26日であり、日本が大東亜戦争に負ける前に設立さ れたこと、国連憲章の53条と107条に敵国条項があり、日本とドイツに対する軍事力行使を明記していること、つまり国連とは連合国の対日独軍事 同盟であり、その国連に毎年莫大な資金を貢いでいる日本は、他国から見れば、敗戦国が許しを乞うために賠償金を支払っているようにしか見えないこと、を知った。

また、南京事件で虐殺された30万人という数字についても、当時、南京に設置されていた国際赤十字の統計によると、南京大虐殺があったとされる 1937年時点の南京市の人口は20万人であり、占領後の1938年の人口は25万人に増えていること、を知った。

当時、国際赤十字委員の委員長であったマギー牧師が、東京裁判で証言した際、1937年から1941年までの4年間で、牧師が目撃した日本兵による中国人殺害の現場は1件であり、それも日本兵の誰何で中国人が逃げ出したためであり、合法であった、と証言しているにもかかわらず、証言が採用 されなかったことも知った。

中立機関である国際赤十字の統計が残っているにもかかわらず、それが証拠として採用されなかった、ということを見ても、東京裁判が勝者の敗者に対 するリンチに過ぎなかったことを小室先生は力説している。

東京裁判の判事は11人いたが、その中で国際法の専門家は、インドのパール判事一人だけであり、そのパール判事は、東条英機以下、全てのA級戦犯に対して無罪判決を言い渡したにもかかわらず、もみ消されてしまった。

後年、1951年5月5日に、東京裁判を主催したマッカーサーが、米国上院の軍事外交特別委員会で、「大東亜戦争は自衛のための戦争であり、日本は侵略戦争をしていない」と証言し、東京裁判の誤りを自ら認めたにも関わらず、日本のマスコミはこのことを一切報道せず、東京裁判史観のまま現在に至っている。

大東亜戦争敗戦により出現した「敗戦利得者」が、自らの地位を守るために、戦前、戦中の日本の大義を否定し、パール判決やマッカーサー発言に耳を貸さず、東京裁判史観に基づいた自虐史観を押し通しているのが現在の日本だ。

これでは、あの戦争で戦って死んだ先達は犬死であり、その魂は永遠に浮かばれない。

小室先生は、ロッキード事件において、田中角栄を擁護し、検察に角栄を殺させるな、と論陣を張った。先生が力説していたのは、政治家の役割は 国家国民の利益を守ることであり、国内の倫理や道徳で縛ってはいけない、というものであった。

国家を外敵から守る役割を持つ政治家に対して、国内の我々パンピーのチンケな倫理で縛るな、原爆を保有し、軍事力の行使をも辞さない海外の政治家と交渉し、日本国民の繁栄を守る使命を帯びている政治家は、海外の政治家以上に腹黒くてしたたかでなければならない、ということだ。ヤクザも避けて 通るような極悪非道の人物でなければ、国益を守れない。

言い方を変えれば、いくら清廉潔白であっても、国家に損害をもたらしたら、それは最低の政治家だ、ということだ。東条英機は清廉潔白な愛国者で あったけれども、結果として国家を滅亡に導いた張本人であり、外国の軍人であるマッカーサーではなく、日本国民自らの手で敗戦責任を問い、絞首刑 にすべきであった。

小室先生は、最後は日本に絶望していたそうだ。しかし、それでも諦めきれず、最後の最後まで、色々な御著書を出版されていた。

あらためて先生の御著書に目を通し、自らが選んだ職業を通じて、日本のために頑張ろうと思う。

是非小室先生の御著書を皆さんもお読みください。



# by matsuo_yuji | 2010-09-17 23:50

小室直樹博士の御著書の紹介
by matsuo_yuji

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